「あるところに狐がいました。狐は嘘つきではありませんでしたが、狐の父親は嘘つきでした。嘘をついて村の皆…」伊達きよのスレッド

7,8532.6万2022-07-12 10:04:03

あるところに狐がいました。狐は嘘つきではありませんでしたが、狐の父親は嘘つきでした。嘘をついて村の皆からお金を騙し取り、それを持って逃げました。小狐一匹だけを置いて。 村の人は残された小狐を責めました。小狐は昨日まで親切だった村の人達がとても冷たく尖った言葉をぶつけてくるので

2022-07-12 10:04:03

悲しくなりました。けれど、自分の父が「悪いこと」をしたというのもなんとなくわかっていたので、文句は言いませんでした。 行くところもなく、狐はその村の外れにある荒屋に住み続けました。村の人はいい顔はしませんでしたが、面と向かって出ていけともいいませんでした。狐はひとりぼっちでした。

2022-07-12 10:04:04

十年が経ちました。 狐は一度も悪いことをせず、むしろ人が困っていたら手を貸し力を貸し、村のために尽くしてきました。しかし、どんなにいいことをしても「所詮は狐の子供だから」の一言でいいことを無かったことにされました。狐の父の罪は狐の罪ではない、と思いましたが、それを狐が言うべきでは

2022-07-12 10:04:04

ないということもわかっていました。狐は人の顔色を伺うのが得意になっていました。 そんなある日、狐は川で小さな籠を拾いました。中を覗いてみると小さな黒いものが入っていました。黒い、猫のようです。狐は家に帰ってミルクを温めてやりました。黒猫は目を閉じたまますんすんと鼻を鳴らしミルクを

2022-07-12 10:04:05

求めました。が、それがそれがどこにあるのかよくわかっていないようでした。どうやら目が見えないらしいのです。狐は自らの指先にミルクを垂らし、黒猫の口元に持っていってやりました。黒猫はちうちうと狐の指先を吸いました。そして、皿いっぱいにあったミルクを全て飲み干した頃、小さな小さな声で

2022-07-12 10:04:06

「ありがとう」と言いました。狐は全身の毛が逆立つのを肌で感じました。それはおよそ10年ぶりに聞いた、混じり気のない「ありがとう」でした。その黒くて小さな命が愛らしくてかわいくて、狐は黒猫をソッと抱き上げてその腹に頬を寄せました。そして「どういたしまして」と答えました。

2022-07-12 10:17:08

どうしてだか、涙が後から後から溢れて止まらず、狐は黒猫に見えないようにこっそりと涙を流し続けました。 続く。

2022-07-12 10:17:43

村人は突然現れた黒猫を見て嫌そうな顔をしましたが、目の見えない黒猫にはその顔は見えません。狐は堂々と黒猫を育てました。黒猫さえ嫌な思いをしないのであれば、それでいいと思っていました。 黒猫はとても行儀のいい子でした。食べ方寝方歩き方、そのどれもが上品で、狐はその動きひとつひとつに

2022-07-12 10:35:02

見惚れました。なんて美しい子だろう、なんて可愛い子だろう、狐はいつもそう言って黒猫の額を舐めました。黒猫はくすぐったそうにそれを受け入れて「きっとあなたが育ててくれているからです」と答えました。黒猫はたいそう狐に懐いていました。 狐は黒猫がどこにいってもわかるように、とその首に鈴

2022-07-12 10:35:02

をつけました。村一番の金物屋で仕入れた上等の鈴です。まるで澄んだ小鳥の声よりまだ美しくリンリンと鳴る鈴の音は、美しく愛らしい黒猫にとても似合っていました。代わりに狐の毛皮をごっそりと売ったので、狐の尻尾はさびしくなりましたが、狐はそれでも満足でした。黒猫には見窄らしい尻尾も見え

2022-07-12 10:35:02

ませんから、いいのです。黒猫は誇らしげに鈴を鳴らして狐に聴かせてくれました。狐が「あぁいい音だ。そこにいるのがすぐわかる」と言うと、黒猫は「いつでも側にいます」と言いました。狐は少し大きくなった黒猫をよいしょと抱き上げて、その腹に頬を当てて「うん」と頷きました。

2022-07-12 10:35:03

黒猫は健やかに育ちました。柔らかな毛はなめし皮のように艶やかに硬くなり、丸っこかった鼻先はつんと尖って、ゆるりと持ち上げた頬から見える牙はすらりと尖っていました。狐の足先ほどの大きさしかなかったのに、今はその半身ほどの高さまで背が伸びました。村人が「よっぽど良い物を食わせている

2022-07-12 10:51:01

んだろう。そんな金があったら親父の罪滅ぼしにあてたらどうだい」と嫌味を言ってくるほどの成長っぷりです。狐の父が村人から騙し取った金は、狐が返していました。というより、返しきったはずでした…が、まだ利子が残っています。狐は後何年、後どれほど金を返さなければならないか知り

2022-07-12 10:51:02

ませんでした。村人の誰も、狐にそんなことを教えてくれなかったからです。狐はきっと、自分が生きているうちに返せる額ではないのだと思っていました。昔はそれでいいと思っていました、が、今は少し違います。村で父親の罪を償って生きていくより、黒猫とどこか遠くでのんびり暮らしたいと思うように

2022-07-12 10:51:02

なってしまったのです。もちろん、そんなこと誰にも言えません。 黒猫には、「大きくなったら村を出て生きていくんだ」と言うつもりでした。黒猫は上品で美しく愛らしいのです。目さえ見えれば、きっと立派な職に就いて、素晴らしい人生を歩めるはずなのです。狐は、金と毛皮を貯めていました。

2022-07-12 10:51:02

それで黒猫の目がなおるように手術を受けさせてやるつもりだったのです。狐は「ずっと黒猫と一緒にいたい」という願いを箱に仕舞って鍵をかけて、縄でぐるぐる巻きにして心の泉に沈めました。代わりに、「黒猫を立派にしてやりたい。素晴らしい生活を与えてやりたい」という願いを掲げました。 続く。

2022-07-12 10:51:03

黒猫を拾ってから3回冬が来ました。黒猫は元気に育っています。いつの間にか、狐と同じくらいの大きさになってしまった黒猫のために、狐は新しく寝床をこさえてやりました。が、それぞれの寝床で寝たはずなのに、朝になると隣には黒猫がいました。黒猫は「あなたの側にいないと眠れない」と言いました

2022-07-12 13:02:34

。狐はそんなはずはないとわかっていましたが、何も言わずに黒猫を受け入れてやりました。黒猫の願いなら、どんな小さなことでも叶えてやりたかったのです。 黒猫の体がしっかりとしてきたということは、手術を受けるだけの体力もついてきたということ。狐はこっそりと街に出て、医者に事情を説明しま

2022-07-12 13:02:34

した。医者は狐の話を親身になって聞いてくれました。そして狐の顔や毛皮をジッと眺めてから、狐の手に自身の手をするりと絡めてきました。「手術後は、その子を手放す気でいらっしゃると?」どうして手を触られているのかわからないまま、狐は正直に「あぁ」と頷きました。黒猫は見た目もいいけれど

2022-07-12 13:02:34

頭も賢いので、しかるべき教育を受けさせてあげたいと思っていました。もっと大きな街の全寮制の学園に入れてあげられれば、それが一番いいと。しかし、手術も受けさせて立派な学園に入れてやるには、金も毛皮も足りません。とりあえずは目の手術を優先して…、と語る狐に、なんと医者が「よければ私が

2022-07-12 13:02:35

援助しましょうか」と申し出てきました。狐が驚いて顔を上げると、医者は「今のお話に胸を打たれました。良ければ私がお金を出しましょう」と。「本当に?」と驚く狐に、医者は「ただし」と話を付け加えました。「全額は援助できません。一部は狐さんにもご負担していただきたい」と。そして「やぁ、

2022-07-12 13:02:35

返すのはお金でも毛皮でもなくていい。貴方自身で払っていただければ」と。狐は最初意味がわかりませんでしたが、手首を這う医者の手が二の腕まで伸びてきた時に、ようやく気付きました。狐はほんの少しだけ悩みましたが、ほんの少しの後にしっかりと「わかった」と頷きました。そも、狐には一生

2022-07-12 13:02:36

かかっても返せないだけの借金があるのです。それが少し増えたところで痛くも痒くもありませんでした。自分の体で黒猫を素晴らしい世界へ送り出せるなら、それ以上に良いことなどないと思ったのです。狐は用意周到な医者と契約書を交わして、来た時と同じようにこっそりと家に帰りました。

2022-07-12 13:02:36

狐はいつも寝物語に外の世界の素晴らしさを語りました。「美味しいものがたくさんある」「狐さんのご飯が一番美味しいです」「綺麗な人や物がたくさんある」「僕の目には見えません」「金が…、何も不自由しないくらいの金が稼げる」「貴方と楽しく暮らせるだけのお金があればいいのです」しかし、

2022-07-12 13:38:31

どんなに外の世界の素晴らしさを語っても、黒猫はいつもこんな調子で、狐の首筋に鼻を押し付けちりちりと鈴を鳴らすばかりです。狐は耳を伏せて「困ったな」と内心考えてから「俺も金があると嬉しい」と言いました。すると黒猫が真っ黒な目を丸くして「狐さんはお金があった方がいいですか?」と問うて

2022-07-12 13:38:32

きました。狐は父狐や、村人、そして医者のことを頭に思い浮かべました。そして「そうだな」とこくりと頷きました。金があれば、金があったから、金がなかったから、狐は悲しい思いをしたり何かを諦めてきた気がします。実際のところ、金があれば幸せかどうかなんてわかりません。ただ、それでも、

2022-07-12 13:38:32

黒猫には金で不自由な思いをして欲しくありませんでした。今は無邪気に自分との生活を一番だと思ってくれる黒猫も、いずれはその不便さや不自由さ、息苦しさに気付くはずです。 最近、村の若い者がそわそわとした顔で黒猫を見ているのを狐は知っていました。狐の目だけにではなく、誰の目にも黒猫は

2022-07-12 13:38:32

魅力的に見えるのでしょう。それはそうです、だって、狐の可愛い黒猫なのですから。黒猫がその視線に気付かなくてよかった、目が見えなくてよかった、と心の隅でぼんやりと考えてしまってから、狐は「いけない」と思いました。心の泉に沈めたはずの願いが、その箱の隙間から漏れ出していたのです。

2022-07-12 13:38:33

狐はそんな卑しい自分がほとほと嫌になりました。黒猫の幸せを願うのであれば、そろそろ黒猫を手放してあげなければならないのです。 ある日狐は、黒猫に言いました。「今からお前の目が見えるように手術をする。お金?大丈夫、これまでにちゃんと蓄えておいたんだ。毛皮もたんまりある。なにも心配

2022-07-12 13:38:33

する事はない。それから、手術後すぐにお前が学校に行けるように手続きをしておいたんだ。うん、そう、ちゃんとお金を稼げるようにね。しっかり勉強するんだ。…え?もちろんいつでも帰って来ればいい。ここはお前の家なんだから……」 黒猫は何度も何度も狐に確認しました。狐はその不安を消して

2022-07-12 13:38:33

あげるように何度も何度も頷きました。それでも黒猫が不安そうにしていたので、狐は言いました。「君が鈴を鳴らせばどこにいてもわかるから」と。「どこにいてもきっと見つけてあげるから」と。黒猫は狐を見上げて、はい、と頷きました。黒猫はとても賢くて、とても聞き分けのいい子です。黒猫は、

2022-07-12 13:38:34

狐の優しくとも残酷な嘘を信じました。 黒猫が、この小さな村の小さな家に戻ってくる事は不可能でしょう。なにしろ黒猫はこの村の名前も知りません。例え目が見えるようになっても、村までの道のりを知らないので、帰りようがありません。狐は自分がどれだけ残酷なことをしようとしているかわかって

2022-07-12 13:38:34

いました。しかし、それが黒猫にとって一番の幸せなのだと思っていました。こんな村で、嫌われ者の狐と暮らしていくより、街に出て学問を学び良き友を得て楽しく賑やかに暮らしていく方がいいのだ、と。狐は黒猫の素晴らしい未来を思い描き、精一杯の笑顔を浮かべました。そして今生の別れのつもりで

2022-07-12 13:38:35

黒猫を抱き締めました。黒猫も、同じだけの力で狐を抱き返してくれました。狐は泣きました。黒猫に悟られないよう、静かに、ほろほろと。 父の罪を償うためだけにあると思っていた自分の人生に、もうひとつ、それとは比べようもない立派な意義が与えられたのです。狐は生まれて初めて「ありがとう」

2022-07-12 13:38:35

と心からの感謝を、誰にともなく述べました。 続く。

2022-07-12 13:38:35

季節がいくつも過ぎました。狐は黒猫が来る前と同じような生活をしていました。変わったことといえば、荒屋を訪ねてくる人物が一人増えたことくらいです。それは、あの医者でした。彼は狐からきっちりと借金を取り立てていました。「悪いことをするにはこの村はちょうどいい」と言いながら。彼は豪華な

2022-07-12 15:32:13

屋敷や素敵な家族を持つ立派な医者でしたが、この家に来る時は悪い男でした。文字通り「好き勝手」にされて、狐は自身の尊厳というものをくしゃくしゃにされてしまいました。医者が来た次の日は寝床から立ち上がることもできません。村人に「月に何日も寝込んで、役立たずだねぇ」と言われるので、無理

2022-07-12 15:32:14

をして一日で起き上がるようにしていましたが、本当は二日でも三日でも寝込んでいたい気分でした。そんな最悪の日々でしたが、狐はそれでも幸せでした。黒猫が元気に学園に通っていると知っているからです。 医者はきちんと約束を果たしてくれました。黒猫は全寮制の学校に通っています。医者が後継人

2022-07-12 15:32:14

として立ってくれて、諸々の手続きも済ませてくれました。狐の寝床で「悪さ」をする時、時折思い出したように「あの子は本当に優秀だったみたいだね」「学年で一番だそうだよ」「表彰されたってさ」と教えてくれました。どうやら後継人として学園から連絡がいくようです。狐は医者に聞いた話を何度も

2022-07-12 15:32:14

何度も心の中で繰り返しました。辛いことがあった時、どうしても立ち上がれない時、そのことを思い出して、心の中で優しく撫で回して、そして元気を貰いました。黒猫のことを思えば、どんな不幸も幸せに変わりました。黒猫は、狐の希望でした。 しかし、ある時から医者はあまり黒猫の話をしなくなり

2022-07-12 15:32:15

ました。狐は黒猫のことを聞きたくてたまりませんでしたが、医者の機嫌を損ねると「悪さ」がひどくなるので黙っていました。が、いくら経っても黒猫の話をしてくれないので、狐はついに耐えきれず黒猫の話をねだりました。すると医者は思い掛けないことを言いました。「あぁあの子ね。あの子は凄いね。

2022-07-12 15:32:15

この国の○○の息子だったらしいじゃないか」と。狐は「え?」と切れ長の目を見開きました。○○といえば、国の重要な役職です。一般人はおいそれと出会えないような、そんな。「後継者争いから殺されかけて乳母と共に逃げ出して、いよいよ追い詰められて川に流された…ってさ。まるで御伽噺みたいな

2022-07-12 15:32:16

話だ」「君、川であの子を拾ったんでしょ?」なんて、笑いながら話す医者は、まるで他人事のようです。いや、他人だからしょうがないのですが、狐にとっては黒猫は他人ではありません。「とても優秀で学園でも目立っていたからね。ずっと息子を探していた○○と感動の再会さ。あぁ、私もいくらか謝礼を

2022-07-12 15:32:16

貰ったよ」と言われても、狐は呆然とするばかりです。黒猫が妙に上品だった理由を今更ながらに目の前に差し出されて、狐は息もできずに目を見開いていました。「君はあの子に自分の存在を知られたくないって言っていたから、君のことは黙っておいたよ」「そもそも、君は全然彼のことを聞いてこなかった

2022-07-12 15:32:16

じゃないか。てっきりもう興味がないのかと思っていたよ」なんて笑われて、腕を取られて乱暴に裏返されて……狐はぼんやりと荒屋の天井を眺めました。そう、自分の知らないところで黒猫は本当の家族を得て幸せに暮らしていたのです。しかも、黒猫はもう学園を卒業したのだといいます。学園に何年通う

2022-07-12 15:32:17

かも知らなかった狐は、自分の物知らずぶりに思わず笑って、そして泣きました。泣く狐を見て、医者は興奮した様子でした。いつもより手酷く扱われながら、狐は「黒猫」「俺の黒猫」と小さくこぼしてはしくしくと泣きました。もう自分の黒猫ではない……いや、元々その黒い毛の一片たりとも自分のもの

2022-07-12 15:32:17

ではなかった愛しい黒猫を思い泣きました。医者はそんな狐を見下ろし弾けるように笑いながら「あの子は黒猫ではないよ。獰猛で優秀な黒豹さ」と言いました。 狐の黒猫なんてものは、この世のどこにも存在しなかったのです。 続く。

2022-07-12 15:32:17

それからまた、いくらかの時が流れました。ある冬、狐は風邪を引きました。初めはこんこんと咳が出る程度でしたが、そのうちに寝床から立ち上がれないくらいの頭痛に襲われて、目の前がぼやけて、手足が痺れて、水を飲むことすらできなくなりました。しばらくして頭痛は治り、熱も下がりました。が、

2022-07-12 19:16:37

目の前はぼやけたままでした。びっくりしましたが、そのうち良くなるだろうと思っていました。しかし、何回寝て起きても目の前はぼやけたままです。どころか、日に日にぼやけはひどくなっていきました。 その頃になると、医者が訪ねてくる頻度もぐんと落ちていました。どうやら狐に対する興味も薄れて

2022-07-12 19:16:37

きたようです。視界のぼやけを医者に相談してみようかと思いましたが、やめました。自分の体のことを相談するには、医者に「嫌なこと」をされ過ぎました。彼に相談するくらいなら、なんでもないふりをしている方がマシです。医者は何も気付くことなく、いつも通り悪さをして……そして、ふつりと現れ

2022-07-12 19:16:38

なくなりました。なんともあっけない関係の終わりでした。しかし、狐の方もちょうどよかった、と思いました。視界のぼやけは一向に改善せず、最近は目を開いていても閉じていてもあまり変わらないような状態だからです。辛うじて目の前のものの大きさは捉えられますが、それが何なのかまではわからない

2022-07-12 19:16:38

。そのくらいに視力が落ちていました。村の人達はよろよろと歩く狐に、金を返せとは言わなくなりました。むしろ「いらない病気をうつされたら困る」と近寄りもしなくなりました。狐は村の中で、不思議なほど静かに暮らしていました。朝起きて、川で顔を洗って蓄えていた木の実を食べて、運が良ければ

2022-07-12 19:16:38

魚を釣りあげ焼いて食べて。そしてまた寝床に入って寝る。その繰り返しです。たまに川の淵にぼんやりと座り込んでいると、小さな鳴き声が聞こえてきます。その度に「黒猫」と叫んで狐は川に飛び込みます。しかしもちろん、川に籠は流れてきませんし、黒猫もどこにもいません。狐の幻聴です。目が悪く

2022-07-12 19:16:39

なったせいかどうか、最近は現実にはない音を聞いてしまうようになりました。それはどれも、黒猫に関する音ばかりです。寝床に入って、ちりちりと可愛らしいあの鈴の音を聞いた…気がして何度飛び起きたことでしょう。今や黒豹として立派に自身の仕事を務めているだろう彼が、あの「黒猫」に戻ること

2022-07-12 19:16:39

なんてありえるわけがないのに。そもそも、この村に戻ってこないように村の名前すら、帰り道すら教えなかったのは自分なのに。 黒猫は今、幸せに生きている。本当の親に巡り会えて…。それがわかっただけでいいじゃないか、と狐は何度も心の中で繰り返しました。繰り返して繰り返して…、

2022-07-12 19:16:39

そしていよいよ寝床から立ち上がれなくなった頃、狐は「そうだ」と昔のことを思い出しました。昔々、黒猫がまだ狐の黒猫だった頃、自分は自分の願い事を胸の中の泉に沈めてしまった、と。もう許される頃だろう、と狐は心の泉に潜り、縄でぐるぐる巻きにされた箱をそっと拾い上げました。

2022-07-12 19:16:40

そしてきつく縛った縄を解いて、箱の蓋を開けました。 「ずっと黒猫と一緒にいたい」 狐は、初めて自分の望みを口にしました。一緒にいたい、いたい、いたいよ、と寝床の中で繰り返しました。黒猫に幸せになって欲しかった、けれど本当は、それと同じくらい、狐は黒猫と一緒にいたかったのです。黒猫が

2022-07-12 19:16:40

幸せになった今なら、その気持ちを口にしても許される気がしました。繰り返しているうちに、声がカサカサに掠れてきました。目の前も薄暗くなっていきます。遠くの方から、りんりん、と黒猫の鈴の音が聞こえてきました。小鳥の鳴き声より澄んだその音は、黒猫の音です。彼がどこにいてもわかるように、

2022-07-12 19:16:40

狐が送った音です。「黒猫」狐は吐息のような声を漏らしました。黒猫、黒猫、俺の黒猫。 世界は真っ黒に染まりました。黒猫の色です。狐は黒猫の色と音に包まれて、もうなにも怖くないと思いました。 続く

2022-07-12 19:16:40

目が覚めると、やはり視界は真っ暗でした。しかしぼやけているのではなく、強制的に真っ暗闇の中にいるようです。目に触れると包帯が巻かれているのがわかりました。どうやらどこかの寝床に寝かされているのだとわかり、狐はよろよろとそこから出ようとしました。が、力のかけどころが上手くわからず、

2022-07-12 19:39:28

狐はごろりと転げ落ちました。が、その体を誰かが受け止めました。驚いて身をひくと、りんりん、と懐かしい音がしました。いつもの幻聴かと思いましたが、あまりにも「そこ」にあるように鳴るので、狐は「黒猫?」と虚空に向かって問いかけてしまいました。返事はありません。狐は躊躇いながらも口を

2022-07-12 19:39:28

噤みました。黒猫であるはずがないと気付いたからです。どうして幸せに暮らしているはずの黒猫が帰る家も教えずに放り出した狐など探し出すでしょうか。…その部屋は薬品の匂いがしましたので、狐は躊躇った後に「××…?」と医者の名前を口に出しました。すると、息を吸うような音がして、それから、

2022-07-12 19:39:28

ドアがバンッと力強く閉められました。鈴の持ち主は部屋の外に出て行ってしまったようです。狐はどうしようもないまま、寝床に体を埋めました。それ以外、狐に出来ることはなかったからです。 それから、狐は一日のほとんどを寝床の上で過ごすようになりました。薬を与えられているからか、日がな一日

2022-07-12 19:39:29

うとうとと眠気が消えません。 ふと起きると、よく人の気配を感じました。部屋には何人か出入りしているようでしたが、狐に判別がつくのは一人だけでした。あの、鈴の音をさせる人です。彼はよく部屋にいるようでした。時折、寝ている狐の毛を梳いている気配がします。狐は目が覚めていても、何も言い

2022-07-12 19:39:29

ません。彼が泣いている気配が伝わってくるからです。狐の、痩せ細った腕を取って、声を噛み殺して泣いているのに気付いているからです。彼がどうして泣くのか、どうして何も言ってくれないのか、狐には思い当たるようで思い当たりませんでした。目が見えないと、相手の気持ちまで見えなくなるのだと、

2022-07-12 19:39:29

狐は初めて知りました。黒猫もこんな気持ちだったのかな…と思って、心が切なく萎みました。 もうこのまま話しかけられることはないと思っていたある日のこと、「彼」が思いがけず声を発しました。「貴方の目の手術は成功しました。明日にでもその包帯は取れます」と。そして「家と、しばらく暮らせる

2022-07-12 19:39:30

だけの金を用意してあるので、もし……嫌でなければそこで暮らして欲しい」と。とても低く、重たく、黒猫とは似ても似つかない声でした。 狐はしばし黙り込みました。それからゆっくりと口を開きました。「黒猫…だよな」と。相手は黙ってしまいました。沈黙は肯定と同様です。狐はたまらず「黒猫、

2022-07-12 19:39:30

ごめんな」と謝りました。「黒猫、ごめん。お前を放り出した俺を怒ってるんだろう。なのに目を手術してくれたんだな。ありがとう、…ありがとう。でも、家なんていいんだ。金なんて…そんな。目が治ったらそれでいい。俺はあの村で暮らしていけるから。だから、お前は幸せに……」狐はずっと思っていた

2022-07-12 19:39:30

ことを伝えました。黒猫が狐と話さないのは、きっと狐に腹を立てているからだ、と。いつでも帰ってきていいなんて調子のいいことを言って姿を消した仮の…保護者に怒っているのだろう、と。ごめんな、ごめん、と繰り返す狐の肩を大きな手が掴みました。「怒ってますよ!」という怒鳴り声とともに。

2022-07-12 19:39:31

がくがくと揺すぶられて、包帯が緩みました。久しぶりの光に目を眇めた向こう側に、黒い何かが見えました。耳には、りんりんと軽やかな音が絶え間なく響きます。「そりゃあ、怒ってますよ……、いや、嘘、怒ってない…、怒ってる。悲しい、そして、悔しい……。違う、僕は、僕は……」「貴方がこんなに

2022-07-12 19:39:31

なるまで助けることができなかった僕自身に……怒ってる、嫌いだ、苦しい……」眩しい世界の中で泣いていたのは、黒猫とはまるで違う、大きな黒豹でした。大きな大きな体を丸めて、おいおいと泣いています。どこからどう見ても黒猫ではない彼に、しかし狐は手を伸ばしました。思い切り伸ばして、その

2022-07-12 19:39:31

大きな体を両手で包んであげました。 「黒猫」 うっうっ、と泣く黒豹を、狐は「黒猫」と呼びました。「俺の黒猫」と言って額を舐めてやると、黒豹はますます泣きました。もう首に回らなくなったのであろう鈴の付いた首輪は、手首にしっかりと巻かれていました。そこにいたのは、間違いなく狐の黒猫

2022-07-12 19:39:32

です。 多分、聞かなければいけないことや、謝らなければならないことがたくさんあると思いました。が、今だけは、その全てを忘れて狐は黒猫を抱きしめました。黒猫の大きな腕が、今は小さくなってしまった狐の背中に回りました。その腕の、たしかな温もりを感じながら、

2022-07-12 19:39:32

狐は「ありがとう」と言いました。どうしてこんなに大事な言葉を忘れていたんだろうと不思議に思いながら、「ありがとう、黒猫」「ありがとう」と何度も何度も繰り返しました。こんなにも透き通ったありがとうを言うのは人生で二度目でした。 初めて混じり気のない「ありがとう」を聞いたあの時のよう

2022-07-12 19:39:33

に、彼の耳にもそんなふうに聞こえていたらいいなと思いながら、狐は「ありがとう」ともう一度伝えました。 狐の耳には、ちりちりと可愛い鈴の音が、いつまでもいつまでも、途切れることなく響いていました。 終わり

2022-07-12 19:39:33
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成人済み。BL小説をのんびり書いています。既刊『黒い獣に幸せのキス』『ゲテモノゲゲと呪いの魔法』『アズラエル家の次男は半魔』『春になるまで待っててね』他。アイコンはもんちさん(@l3_imxa)、ヘッダーはimoooさん(@imodayosagyo)です。R18▷@kiyokiyomaroura

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TOPPU(´-ω-`)★ @toppu_ayu
79193262022-03-15 19:18:45

「お友達の目が怖い」 「なんだか死ねって聞こえる」 と言い出し、どんどん学校へ行く事を渋るようになった9年前。 ピカピカのランドセルを背負って元気に行ってくれるかと思っていた矢先の出来事だった。 入学前検査では引っかからずに、通常学級の一員だった次男。毎朝一緒に泣きながら登校した。→

鈴木勇子(Suzuki Yuko) @siriushh
40421662022-06-24 09:57:13

娘が小4で学校をやめて家に毎日いるようになって、今年彼女は18歳になりました。 いかなる学校へも行かずホームスクーリングもなしでいったいどんな様子なのか、少しずつ書いてみようと思います。 まず今のところの結論として、娘も親も何も困っていません。 むしろ命拾いしたんですよね。

次の積みゲー消化は Noesis CURE GIRL #エロゲ #エロゲー #積みゲー #積みゲ #CUREGIRL

今考えてるのはね、竜のお世話係として異世界召喚されたけど、喚ばれたと思ったら竜が討伐されちゃったので行き場を失った人間が未知の異世界で生き延びる、ベタベタなんだかよくわからないゆるふわファンタジー🐉

つっきー @psypsytuki
5354449352022-11-25 05:55:00

「まだ未清算の商品お持ちですよね?」 やっと捕まえた。 『・・・』 女性は黙ったまま静かに頷く。そのまま事務所に連れていき、盗んだものをオーナーと二人で確認していく。盗んだのは菓子パン2つ。身分証明書の提示を求めたが運転免許証も保険証もない状況だった。決して綺麗とは言えない身なり→

🐬イルカ🐬 @poet_dolphin
404402022-10-10 00:01:04

心の底から好きになった女性の話 出会いは某マッチングアプリ。 当時の僕は俗に言うヤリモクで、ワンナイトばかり繰り返していた。 マッチしたら固定メッセージで連絡先を交換し、電話で相手の警戒心を解いてアポを組み、即日体を重ねる。 世間的に非常識なルーティーンは、僕にとっての常識だった。

昨日お銭湯に行ったら 可愛い小学生に話しかけられました。 女の子: あたたかいね。 私: あたたかいね。 女の子: お姉さんはハーフなの? 私: ううん。純外国人だよ。 女の子: アメリカ? 私: アメリカじゃないね。 女の子: じゃあ、ロシア? 私: はい。でも、今はあまり言えなくてね。 続き↓

ramos2 @ramos262740691
59010112022-06-28 23:29:44

【この写真だけは墓場まで持っていきたいと思う】

養子縁組制度で赤ちゃんお迎えのツイートとリプ欄見て泣いてる 幸せな家庭を築いてほしい、優しいパパとママのもとでなんの遠慮もなくのびのび生きてほしい 保育実習で乳児院に行った時、本当に色々衝撃的で… 顔の半分がアザの1歳の男の子は、虐待を受けてた 親が少し落ち着いて自宅に1泊して→

くも @mkmk____kmkm
8196357622022-04-20 22:35:13

曰く付きの土地に建ってしまった居酒屋、22時を回ると必ず人間ではないなにかが来店してしまう。客は怯えて入りが悪くなるしスタッフも怖がって辞めちゃうので店主は営業時間の短縮せざるをえなくなってたんだけど、ある日ラストまで希望でバイトの男の子が入ってくる。

ふた @kobutakundayo7
10916642022-03-11 03:52:56

3歳で国旗にハマり 4歳で諺 5歳で元素周期表を覚え 「保育園には赤ちゃんの本しかない。お友達はみんな赤ちゃんみたいでお話が通じないし、保育園は楽しいけど赤ちゃんみたいなことばかりさせられる」 って泣いた7歳氏 もうすぐ2年生になる今 支援級で折り合い付けながら それなりにのびのびやってる

銀座交番 @ginza_koban
218992702022-09-13 19:24:55

某選手の"けつあな確定"事件、これってたまたま有名人だっから話題になっただけで似たような話はたくさんある。かつての私もそうだった。Tinderで出会った港区に住む外銀君。私は本気で好きだった。だけど向こうからしたら私は"性処理道具"でしかなかった。そんな惨めな人生を振り返ろうと思う。

内科医の端くれ @naika_hashikure
2341111072022-09-03 23:33:05

辞めてみたらいいと思う。 それも常勤を辞めてバイト医者を続けるとか中途半端なものではなくて、完全に医者を辞めて生計を立てる。 そうすると私たちの大半は医師免許が無いと何もできないことに気がつくし、自分でお金を稼ぐのがどれだけ大変か分かると思う。1/ https://t.co/7CxlZsNGVx

マリウポリに残った唯一の海外メディアAP通信の現地レポをどうぞ。 ウクライナ南部の要衝であるマリウポリは現在激しい包囲戦の最中にあります。 「その包囲戦でどんな事が起きていたのか…」 お時間あれば是非ご一読を。 (以下ツリーに続く)

ゆな先生 @JapanTank
170180092022-08-24 18:13:22

【ある女医の青春と学歴】 一昨年、人生で初めて額面年収が2000万を超えた。 「あれから、何年経ったんだろう」。 Twitterで流れてくる「経験中心の履歴書」のタイムラインを見ながら、遠い故郷を思い出していた。 私は現役である慶應医学部に入った。華々しい学歴だと思うだろうが、身の上話をする。

宮沢先生が入ってきたぞ!なう https://t.co/6jYOvIbM1s